学長通信『則天去私』 President's Blog
No.34 おとぎの国 2025年6月
「早朝、伊豆大島東方の紺碧の洋上を走り、のこぎりの歯のような恰好をした鋸山の森を右に、浦賀の細長い入江を左に見ながら広い湾を横浜へ向かって進んだ。実に陽光燦燦たる日本晴れの一日だった。 江戸湾を北上する途上で、これに勝る景色は世界のどこにもあるまいと思った~中略~西には、富士の秀麗な円錐峰が残雪を僅かに見せながら12000フィートの高みに聳えていた」 アーネスト・サトウ(1843~1929 英国外交官、駐日公使)は、1862(文久2)年9月8日、蒸気スクリュー船ランスフィールド号に乗って初めて日本に到着した時の感激と印象をこのように日記に記しています。
「サトウ」という姓は日本人と混同されやすいですが、スラブ系の姓「Satow」であり、彼はスラブ系ドイツ人の父と英国人の母との間にロンドンで生まれた英国人です。 私は彼の著書「一外交官の見た明治維新」(岩波文庫)と高校生の頃に出会い、貪るように読んだことが昨日の事のように思い出されます。 徳川将軍とその幕臣能吏、朝廷(天皇と公家)、薩長を中心とする尊王攘夷派、諸侯・諸大名、そして日本開国後の利益に預かろうと暗躍する英国、フランス、アメリカ、ドイツ、ロシア、オランダなど諸国の領事・外交官や軍人たちの間で繰り広げられる権謀術数のドラマを、まだ20歳前の駆け出し青年外交官であるサトウが第三者の目で記述したドキュメンタリーと言って良いでしょう。 英国人商人のリチャードソンが馬で島津久光の行列を乱したことで薩摩藩の武士に斬殺された「生麦事件」は、サトウが横浜到着6日後に起きた事件で、早速その衝撃を記録に書いています。 サトウは、その後垂直立ち上げで日本語を習得し、当時日本に住む外国人の中でNo.1の日本語の使い手となり、明治維新の舞台裏で通訳官・外交官として獅子奮迅の活躍をしたのです。 驚くべきことに、サトウは、最後の将軍徳川慶喜はもとより、勝海舟、若き日の明治天皇、岩倉具視、三条実美、薩摩の小松帯刀・大久保利通・西郷隆盛、長州の木戸孝允・伊藤博文、土佐の山内容堂・後藤象二郎など維新の立役者たちとも直接面会・会談をしており、彼らの生身の姿をイキイキと立体的に描いています。
日本と出会ったことでサトウの人生は大きく変わり、生涯で3回の来日を果たし、1895年に駐日特命全権公使となり、ヴィクトリア女王から「サー」の称号を授かったのであります。 サトウがこのように日本に大きく関わりライフをシフトするきっかけとなったのは、青年期からの日本への興味でした。 今であったらアニメ・漫画・日本食等でしょうが、日本が憧れの国として彼の心に大きく登場したのは、15歳の時に読んだローレンス・オリファントの日本見聞録「エルギン卿遣日使節録」との出会いだったのです。 旅行家オリファントは、1858年日英修好通商条約締結のために来日したエルギン卿ジェームス・ブルース伯爵のミッションの秘書を務めた人物です。 オリファントはその見聞録の中で、日本についてこのように語っています。「我々の最初の日本の印象を伝えようとするには、読者の心に極彩色の絵を示さなければ無理だと思われる。 この愉快極まる国の思い出を曇らせる嫌な連想は全くない。 来る日、来る日が、我々を取り巻く日本国民の、友好的で、寛容な性格の鮮やかな証拠を与えてくれた、一日のあらゆる瞬間が、何かしら注目に値する新しい事実をもたらした。 目に映るものと心に残るものとが、たまらないほどの速さと変化を伴って、互いに群がりあった」
この170年近い前の描写が、現代の日本を訪れるインバウンド観光客が日本に持つ印象と変わらない点に驚かされます。 そして、サトウは同書の挿絵にも心を惹かれ「私の想像をかきたてたのは、この国を言葉と色彩で物語る挿絵だだった。 現実にありそうな『おとぎの国』なのだ。 この『天国のような国』を目の当たりにする機会が来ることが私の見果てぬ夢となった」と述懐しています。
そこには、訪問者から見る「非日常」と、居住者にとっての「日常」のギャップが当然あります。 「おとぎの国」も住んでしまえば、リアリティの中に様々な矛盾や辛苦が待ち受けています。 しかし、「初心」や「夢」を忘れないことも大切です。 「日常」をいかに「非日常」的に捉えるか、そして「非日常」をいかに動じずに「日常」として受け止めるか、これが人生の極意だと私は思います。 あなたにとっての「おとぎの国」「おとぎの世界」は何だったか、どこにあったかを少年少女の時代に戻ってもう一度考えてみませんか?
※写真は、私の蔵書、アーネストサトウの著書「一外交官の見た明治維新」 岩波文庫1976年版
(著者:藤田 英樹)