学長通信『則天去私』 President's Blog

No.35 利他なる心 2025年7月

「Ask not what your country can do for you, ask what you can do for your country.」 この言葉は、ジョン・F・ケネディが1961年のアメリカ大統領就任演説の際に、アメリカ国民に向けて呼びかけた象徴的なフレーズです。 この「country」の箇所を「organization」や「company」や「others」に替えても、私は立派に通ずる、人としてあるべき重要な考え方を示唆していると思います。 即ち「国」や「組織」や「会社」や「他人」に「何をしてもらうか」ではなく、「自分が何をできるか」という自らの主体性を持った行動が問われているわけです。ケネディの就任演説の全体の文脈を見てみても、ケネディ自身は、国民一人ひとりが新たなアメリカを創る過程に主体性を持って参加し行動するよう呼びかけるのと共に、人類の自由を守るために利他的な精神を持つことの重要性を訴えていたのだと思い描くことができます。 かって、日本人ひとりひとりが人間としてまた国民としてこのように国の長から求められたことがあったでしょうか? 寡聞にして聞きません。 昭和天皇による終戦の詔書の最後の部分には「総力を将来の建設のために傾け、揺るぎない志をしっかりと持って・・・」という呼びかけはありますが、これは天皇自らの決意を示したもので、「あなた方国民は、これら私の志をよく理解して行動してほしい」と問うているわけです。 カトリック教徒として初めての大統領になったケネディのこの言葉の背後には、キリスト教的な「奉仕」の精神が存在していたのかもしれません。 我が国の代表的なキリスト者で「武士道」の著者でもある新渡戸稲造も唱えた Service & Sacrifice(奉仕と犠牲)はキリスト教の行動規範のひとつであります。このS&Sは彼が初代学長を務めた東京女子大学の校章にもなっています。
 さて「利他」の根底には当然「愛」があるわけですから、新約聖書の「コリント人への手紙」にある著名な一節「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません」はキリスト者にとっては自明の言葉として「利他」を思う時に想起されるのです。 キリスト教信者ではない日本人もキリスト教式結婚式で神父か牧師の前で新郎新婦が永遠の愛を誓う時に、説教としてこのフレーズを聞いたことがあると思います。 「神」や「神の子キリスト」はこのようなアガペー的愛によって我々人間を愛し、救う一方、我々も人間同士、この愛を実践し、あまねく拡げることが理想とされるのです。 ここで、注意が必要なのは、まさに「純粋性」であり「主体性」であると私は考えます。「奉仕と犠牲」の精神にのっとった究極な「利他」を、我々凡庸であり、動物でもある人間が実践する際に、「利他」即ち「他人を利する」「自分がしてほしいことをまず他人に施す」「他人を優先的に考えて行動する」「他人First」というふうに考えて行動することは、純粋性から離れていく恐れがあると私は考えます。 「利(Benefit)」などという思考回路・価値判断回路を挟まない、直観的な想いと行為としての「利他」にこそが真実であると思うのです。 即ち、私は「自分を大事にする」、もっと言えば「自分に正直に向き合う」、「己」を正しく把握した上での「利他」こそ、より主体的で純粋な「利他」であると思うのです。 卑近な言葉で言うと「自分を大切にできない者が、果たして他人を大切にできうるか」という問いを忘れてはならないし、更に言うと「正しき利己」あっての「利他」にこそ持続性があると考えます。
仏教的に言えば「自利利他」の精神です。 「自利利他」の核心は「自利」と「利他」が相反するものではなく、むしろ密接に結びついているということです。「正しき利己」とはいったい何か、そこに正解は求めがたいですが、ひとつの可能性としては、「自分が変わることによる他者の発見」は利他につながると思いますし、「自分の中に余白を持ち、人を受け入れたり、信頼する余地を増幅する」ことが「利他」を増幅するのだろうと考えます。 ライフシフトをしていく上で、ミドルシニアが必ずやスコープに入れるべき「奉仕と犠牲」「利己と利他」について自分なりの哲学を持つことは、必ずや自分自身を精神的に豊かにしていくことでしょう。
※写真は長崎県五島列島の世界文化遺産の教会(筆者撮影)

(著者:藤田 英樹)