学長通信『則天去私』 President's Blog
No.43 W/L 2026年3月
「型にはまった退屈な生活をする暇はないのよ。 仕事のための時間と人を愛するための時間があるだけ。 ほかに費やす時間はないわ」(ココ・シャネル ファッションデザイナー、企業家 1883~1971) 働き方改革が喧伝されて以降「ワークライフバランス」がクローズアップされ、「人生」や「自分のプライベートな時間」と「仕事」との比重について、また両者の調和を語ることが当たり前となった感がある。 しかし、考えればすぐにわかることではあるが、人間が費やす時間的要素を「Work」と「Life」という二元論に単純化することはUnfairであるし、そもそも、Workの中に(と共に)Lifeがあるわけであるし、同時にLifeの中に(と共に)Workがあるわけだから、この二元論は構造的に対立・成立しがたい2つの要素を単純に「時間」という概念で無理やり括りだし、隔てようとしていることになる。 産業革命以降、労働の価値が問われ続け、マルクスが「商品の価値の持つ源泉は労働であり、労働時間を自身の生活費を稼ぐ「必要労働時間」と、資本家に無償で提供する(されてしまう)「剰余労働時間」に分け、人間的発展のためには労働時間短縮が必要であり、真の自由な時間は労働の縮小によって生じる」と論じた。 しかし、現代においては「労働」そのものが、18・19世紀の「第一次産業的労働」や「工場のラインでモノを作る労働」とは大きく変質化・複雑化し、労働の価値を見る際に「投入時間」の要素だけではなく、スキルや技術、そして成果や未来に繋がる「やりがい」や、もっと言えば精神性にも連なる「連帯」「成長」など多様な要素が価値の形成に絡んでいる。 そこを二項対立的に(そもそも二項対立さえしていないかもしれないものを)比較し、どちらを取るのかと迫るのは、詮無い議論ではないか。 冒頭のシャネルのように人生を退屈にしないためには、即ち生きがいのある人生を送るためには、「働く」ことWと「愛する」ことL(ove)が人生でもっとも大切と思う人もいる。 英国を代表する数学者で哲学者であるバートランド・ラッセルは、(人生の目的である)幸福の基盤として「仕事」を非常に重視した。 彼の幸福論では、仕事は単なる生活手段ではなく、退屈を避け、技術の向上や構成力(何かを作り上げる喜び)を通じて幸福をもたらす不可欠な要素と唱えているのである。
このW/Lバランス議論を考える上で、とりわけ私達日本人が注意すべき点が3つあると私は思う。 一つ目は、日本人の労働史(日本では古来、働くことを「奉公」と捉えていた)や労働実態を見ると、課題は「W/Lバランス」ではなく「サービス残業」「有給休暇を取りづらい風土」や「意味の無い長い会議」の起因となる「滅私奉公」や「同調圧力」と称される「長いものには巻かれろ」的な日本人のマインドであり、職場風土・慣習であろう。 長幼の序を越えて、言いたいことが言えて、何が本質なのかを議論できる風土やそれをきちんと発言できる「個」を育てていくことこそ重要であろう。 働き方改革関連法が整備される際に「W/Lバランス」があたかも黒船の様に欧米との比較でツールに使われことに、私は今でも大きな「?」を抱いている。 高齢化する日本の労働界や企業内ではもっと「B/Sバランス」(青銀『若い世代B(lue)とシニア世代S(ilver)』の調和と共創)が着目されるべきでると考える。
二つ目の論点は、総労働時間やW/Lバランスを見る時に欧米と比較考量して、日本の至らなさを論じるが、それが必ずしも「Apple to Apple」の比較になっておらず、大いに目くらましになっている点である。 総労働時間やW/Lバランスを統計的に見る時に、米国におけるエグゼンプト対象のワーカーや欧州における専門職等のワーカーの労働時間がそこに捕捉されているかというと甚だ疑問である。 なにしろ時間管理されていない括りのホワイトカラー達が多数なのであるから。 米国や欧州で実際に働いたことがある人にとっては自明の理であるが、日本の企業のビジネスマンが相対し、競争している欧米企業のビジネスマンやエンジニア達は、ほとんどがそういうエグゼンプト扱いであったり、時間には拘束されず知恵と成果で競い合うカテゴリーの人々なのである。 文字通り、寝食を忘れてミッション達成に没頭する人、仕事大好き人間は欧米にもうじゃうじゃいる。 私が初めてアメリカの現地法人で仕事をした時に、真っ先に驚いたのは、日本で言えば主任クラスからエグゼンプトになっており、彼ら彼女らが朝早く7時前から会社に来て、一心不乱に仕事をしている姿であった。 そして17時の定時に帰宅はするが、家族との団らん時間や夕食後に再び仕事をする、今でいうところの在宅勤務(電話会議等)を普通にしていることであった。 私は渡米前にパナソニックの労働組合で書記長をしていた経験があり、盛んに「総実労働時間の短縮と福祉の向上」を叫んでいたので、「あー、これは騙されていた、、大きな勘違いをしていた」、我々日本のビジネスマンが伍している相手はこういうビジネスマン達だったんだと目を見開かされた記憶がある。 欧州のホワイトカラービジネスマンに至っては米国以上に二層構造に分かれている。 IUT(技術短期大学)やSTS(上級技手養成短期高等教育課程)や大学の職業課程を卒業して入社した人は、基本的にはずっとあるカテゴリー(経理、法務等)の事務を退職までやり続ける、どちらかと言えば時間管理の対象者である。 一方、グランゼコールや大学院等で学んだ人たちが専門職や管理職に就き、時間には拘束されず上手に時間と付き合いながら働く時はとことん働いて、メリハリのある働き方をしている。 高市総理が「働いて働いて働いて・・」といみじくも言ったように働くべき時や働きたい時は徹底して働くという、当たり前のことを欧米の社会も当然やっている(やっている人達も多くいる)のであり、その労働構造の実態を我々は見誤ってはいけない。 日本人が本来取り込むべきは「メリハリある仕事の仕方」ではないだろうか。
三つ目の論点は、AI時代の労働である。 今、AIの進展普及により無くなる仕事と益々必要になる仕事という論点で注目を浴びているが、私達日本人の労働価値を差別化してきたコアな要素はどのような影響を受けるだろうか? 一つは、日本人の勤勉性や職人気質である。 そこから生み出される価値は、ものづくりの世界では藤本隆宏の「インテグラルとモジュラー」の対比に見られるように、現場力や組合せ力として「熟練的モノづくり力」の根源あった。 もう一つは、日本人の利他的精神や森羅万象を大切にすることに根差す、他者やお客様を気遣う「おもてなしの心(Hospitality)」や細部まで目の行き届く工夫や対応である。 AI活用の本質の一つは、当然ながら生産性の向上や合理化であり、その結果としての「均一化」や「標準化」が普及していくと、上記の「日本的なもの」と相入れなくなるか、少なくとも浸食され喪失していくであろう。 その結果日本の提供価値の優位性が霞んでいくことになると思われる。 その際、その価値を長年に渡り支えてきた日本の職人や現場力を担う働き手の労働観がどのように変質していくかということが焦点となるであろう。
数十年後を見た時に、日本にとってワークライフバランス以上に大切になってくるのが、私は別のW/Lバランス、即ち、「Win/Lossバランス」と「World/Localバランス」であると思っている。 経済成長やマーケットシェアのW/Lのみや人生の成功を一面的に論じたりするのではなく(「負けるが勝ち」観の存在、プロセスの重要性etc.)、またグローバリゼーションや世界標準だけを追い求めずに地方やその土地のユニークな価値を見出していくことが、確実に成熟し人口が減っていく日本において日本人自らが覚悟を持って考えていかなければならない命題だと考える。
※写真は「ココ(ガブリエル)・シャネル」「カール・マルクス」「バートランド・ラッセル」「藤本隆宏」の著書の表紙写真
(著者:藤田 英樹)