学長通信『則天去私』 President's Blog
No.41 無口でいること 2026年1月
「黙っていた方がいいのだ もし言葉が 一つの小石の沈黙を 忘れている位なら その沈黙の 友情と敵意とを 慣れた舌でごたまぜにする位なら 黙っていた方がいいのだ 一つの言葉の中に戦いを見ぬ位なら 祭とそして 死を聞かぬ位なら 黙っていた方がいいのだ もし言葉が 言葉を超えたものに 自らを捧げぬ位なら 常により深い静けさのために 歌おうとせぬ位なら」(「もし言葉が」谷川俊太郎 詩人 ・脚本家・絵本作家1931~2024)
年を重ねてくればくるほど「言葉」の重みを感じるようになる。 話すことをなりわいにしているから、「時間」を言葉で埋めつくさなければいけないと兎角思いがちで、話をしているとその言葉の薄っぺらさと、それを発する自身の空虚さに気づき、愕然とすることがある。 昔は「弁舌爽やか」と言われると素直に喜び、「寸鉄人を刺す」と言えば、誉め言葉と感じたが、今は「巧言令色鮮きかな仁」の意味を実感する。 そして、コミュニケーションにおいて話すことよりも聴くことの重要性が問われ、コーチングや対話において「傾聴する」ことの大切さが叫ばれる中、発する「言葉」の重みや価値はいっそう増している。 会話はキャッチボールであり、言葉はその道具に過ぎないかもしれないが、道具であるからには、軽くすることも、重くすることも、鋭くすることも、柔らかくすることもできる。 そもそも言葉がだけが言葉ではない。 「目は口ほどにものを言う」のとおり、表情、相槌や顔色、身ぶり手ぶり、姿勢や服装、様々な非言語的表出が媒体として言葉の役割を担いうる。 いや「表出」だけではない、「何も表れないこと、表さないこと」が、「メタ言葉」としてメッセージ性を帯びる。 「沈黙は金」「静かなる抵抗」の様な言葉の武器。 「間(ま)」のごとく、古来から日本の能・狂言や落語などで大切にされてきた考えが存在する。 世阿弥が残した至言がある。 「せぬ隙(ひま)の面白き」 曰く、何もしていないように見える、技と技の間の「間(ま)」や静止した瞬間にこそ、芸の真髄や味わいが宿る。 その瞬間や隙間に演者の内面・心が滲み出て、聴き手の想像力をかきたてる。 もともと会話や対話は話者同士の密度のあるエネルギーのやりとりで、双方向にそれが充満するとそこには緊張や飽和がある。 その緊張をほぐし、フラットな関係を再構築し、新たな関係性のステージに移行するのに、「間」であったり、欧米であれば「ユーモア」であったりが活用されてきたとも言える。
さて、「無口」の意味づけは人それぞれであろう。 私は、2026年は「無口」でいることの心地よさと率直さをかみしめたい。 多言にならないこと、必要最小限の言葉を磨くこと、人の言と言外の言を受けとめること。 谷川俊太郎の詩の言葉を借りるなら「常により深い静けさのために」時間を重ねていこうと思う。 そうして、もう一つは「忘却すること」である。
齢を増し、短期的記憶力が衰え、果たして健忘症や認知症の始まりではないかと危惧を感じる時もあるが、好きなことは忘れない。 大晦日に手に取った外山滋比古さんの本で良い指針をいただいた。 それは「創造的忘却」! 知識によって人間は賢くなることができるが、忘れることによって、知識だけではできない思考を活発にする。 その点で忘却は知識以上の力を持っている。 このことも頭の隅において、60年ぶりの丙午の年、「火」を意味する十干十二支の中の2つが組んだ年を、「火」のように温かい「無口」と、「火」の中に薪をくべるように創造的な「忘却」を楽しんでいきたい。
※写真は「空也上人像」「屋久杉」「若山牧水の愛用の机にて」「丙午のイメージ画」




(著者:藤田 英樹)