学長通信『則天去私』 President's Blog
No.38 神無月 2025年10月
「顔なほ赤し…… うち曇り黄ばめる夕(ゆうべ)、『十月』は熱を病みしか、疲れしか、濁れる河岸(かし)の磨硝子(すりがらす)背にもたれかかり、霧の中、入り日のあとの河の面(も)を
ただうち眺む」(北原白秋 1885~1942) 白秋の処女詩集「邪宗門」に収められている詩「十月の顔」の一節です。「邪宗門」とは即ち「邪悪な宗教」であり、キリスト教のことを指しています。 白秋は当時の詩壇に大きな影響を与えつつあった西欧風の象徴主義・耽美主義を取り入れた実験的で野心的な作品群に、あえてこのタイトルを付けたのではないかと想像します。
白秋が幼少期から旧制高校時代までを過ごし、その感性をはぐくんだ故郷の町は福岡県柳川です。 町の中を掘割が縦横に流れる水郷と川舟下り、そしてドジョウ料理である柳川鍋で有名なこの町はしっとりとした風情のある町です。 上の詩に登場する「河岸」も、きっと白秋はこの故郷の川のイメージを表出しているのではないでしょうか。 柳川の町のもうひとつの魅力は、旧藩主立花氏の別邸である立花氏庭園(御花)です。 柳川藩の第五代藩主、立花貞俶(さだよし)が柳川城の南西隅に、二の丸から建物を移築し、政務を司る本丸御殿とは別に建てた別邸御花畠。 「立花氏庭園」として、国の名勝に指定された建築と空間です。 沢山の黒松に白い庭石や石灯籠がなすコントラストは、元和6年(1620)から明治4年(1871)の250年の長きにわたりこの地を治めた立花藩の歴史の重みを感じさせてくれます。
歴史好きな私はよく「一番好きな戦国武将は誰か?」と聞かれることがあります。 実はその答えが、この立花藩の開祖である立花宗成なのです。 私が立花宗成推しの理由は明解です。 沈着冷静・勇壮無比な大名であり、部下思いで素晴らしいリーダーであったことは言うまでもないですが、同時代の人達からの評価が素晴らしいからです。
①島津も恐れる、寡勢で大軍勢を破る知略の猛将:島津の大友攻めに際し、立花山城の留守を預かる立花宗茂は、迫りくる島津軍に対して籠城戦を行い、機動力を駆使した遊撃戦術を併用して島津軍の本陣を襲い、見事追い払うことに成功した。
②秀吉から当代一の弓取りとして「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と評価:秀吉の行った九州征伐でも獅子奮迅の活躍を見せ、島津の降伏と九州の平定に貢献した。
③文禄・慶長の役で見せた勇気と義侠心:1593年の碧蹄館の戦いで、漢城(ソウル)に進軍する名将李如松率いる明の大軍を迎撃して退け、他の大名達から「日本の無双の勇将」であり、「立花の三千は、他家の一万に匹敵する」と高く評された。
④関ヶ原の戦いでの大津城攻め:1600年の関ヶ原の戦いでは、同日に西軍の遊軍として東軍の京極高次を大津城に攻め包囲戦を展開しており、関ヶ原の決戦の場に参加できず、後にもし立花宗成が関ヶ原に参戦していたら結果が変わって西軍勝利となったという説が飛ぶくらい大きな存在であった。
⑤領国大名への復帰:関ヶ原の戦い後、立花宗成は徳川家康から改易されるが、本多忠勝の仲介により幕府の「御書院番頭」(徳川家康の親衛隊長)に抜擢、五千石を与えられた。更に働きぶりが評価され、その後一万石加増され陸奥国棚倉(現在の福島県)に大名として復帰した。これだけでも異例であるが、徳川家と豊臣家の最後の争いである「大坂冬の陣・夏の陣」において、立花宗茂は豊臣秀頼の参陣がないことなど、豊臣方の動きを予言的中させ、徳川方の勝利に大いに貢献した。その結果、徳川幕府より旧領柳川十一万石を与えられ、元の領国の大名に返り咲いた。後にも先にも例がない実話である。
⑥秀忠・家光の家庭教師・ご意見番:江戸幕府第2代将軍秀忠と第3代将軍家光の御伽衆(おとぎしゅう)にも列せられ、武士の中の武士として、家康の息子と孫の将軍たちの良き相談相手にもなり、72歳で戦国時代の最後の戦いである島原の乱にも長老・アドバイザーとして参戦し、幕軍を勝利に導いた。
となんとまあ、見事にライフシフトを遂げた見本のような大名が立花宗成なのです。運と縁、とりわけ良き仲間良き上司に恵まれ、生涯現役で活躍した立花宗成を皆さん是非覚えておいて欲しいと願います!
※写真は、柳川の立花邸 御花と立花宗成肖像画


(著者:藤田 英樹)