学長通信『則天去私』 President's Blog

No.39 第三の禅 2025年11月

「百歳長宵夢 幾能醒一塲 布德及鱗羽 興慈至善良 力行廣濟道 物我樂無彊」(隠元隆琦 いんげん りゅうき 1592~1673) この漢詩を現代風に解釈すると、「人生100年といえども、一夜の長い夢のようなものだ。 何度生まれ変わろうが「あーもっとこうしていればよかった」という悔恨と共に目覚めるものだ。 もしそうならば、自然界のすべての生物、あらゆる人々・周囲に対して徳をほどこし、慈しみの気持ちで接し、気持ちの良い世界を実現したいものだ。 こうした努力こそがまさに自分だけでなく周りを救い、自身の人生にも周りの人々の人生にも最大の幸福をもたらすのだ」
隠元は、明(みん)朝時代の中国福建省に生まれ、日本に渡り、黄檗宗を開いた禅僧です。 彼の生涯を紐解くと、出家して中国の各地で修行を積み、臨済宗の優れた僧侶として福建省にある黄檗山萬福寺(おうばくざんまんぷくじ)の住職になります。 その名声を聞きつけた長崎の僧侶たちが日本に招請し、3年間の滞在という約束で、1654年 隠元は63歳のときに弟子とともに日本に渡ります。 長崎市にある興福寺で1年ほど過ごしたあと、大阪の僧侶らの働きかけによって、現在の大阪府高槻市にある普門寺に移りました。 隠元は江戸城で四代将軍徳川家綱とも面会し、1661年には隠元に帰依した家綱や後水尾法皇の支援により、京都府宇治市に、中国で自らが住職を務めたお寺と同じ名前の萬福寺を開きました。 結局、隠元は中国に帰ることはなく、日本で僧侶として活動を続け、1673年に82歳で亡くなりました。 隠元が日本で広めた宗派は黄檗宗(おうばくしゅう)と名付けられ、鎌倉時代から広まった臨済宗(栄西)と曹洞宗(道元)に次いで、五百年を経て日本における三番目の禅宗となったのです。 隠元とその弟子達はまた、「隠元豆」をはじめ、スイカ、レンコン、煎茶の習慣、普茶料理など多くの食文化や、お寺の木魚、建築・印刷技術を中国から日本にもたらしました。
隠元は感受性豊かで愛情深く、とても魅力的な人だったようで、禅宗としては後発だったにも関わらず黄檗宗の寺院は全国で460にも達します。 とはいうものの、臨済宗の5700寺、曹洞宗の14700寺と比べますとマイナーな禅宗であり、特に関東では見かけません。 現場訪問を旨とする私は先日、墨田区向島にある黄檗宗の寺院「牛頭山 弘福寺」を詣でて参りました。 向島の料亭街を通り抜けた先、隅田川べりに建つ、大変立派な御門と本堂を持つお寺さんでした。 1673年の開山で本尊は釈迦如来、隅田川七福神のひとつ布袋様もお祀りし、昭和の名優小沢昭一さんのお墓もありました。
隠元禅師は、いわば、江戸期の鑑真(天平時代に不屈の魂で渡日し奈良に唐招提寺を建立)です。「人生五十年」といわれた時代、隠元は63歳という高齢で、祖国の衆徒や檀家の人々に別れを告げ、当時倭寇や海賊が横行する東シナ海を、歌舞伎や浄瑠璃の「国姓爺合戦」でも名を馳せる鄭成功の船団に護送を願い、日本へと渡海してきたのです。 まさにライフシフトの体現者です。 明末・清初の動乱の中を生き「萬国の春」「世界の平和」を願う気持ちが人一倍強く、黄檗派伝来の「言葉で伝える意義」を強く示し、同時に修行の謹厳を範とし、晩年の隠退後は、老荘への志向が見られ、詩情豊かな感性を詩として表現した隠元禅師。冒頭の詩は一部を省略していますが、そのひとつなのです。 縁あって向島の黄檗宗・弘福寺に眠る小沢昭一の好きな言葉に「一寸先は闇。今日を頑張る」という言葉があります。また「幸せはささやかなるものをもって極上とす」という彼の名言もあります。 私もそのとおりだなと思います。 黄檗宗を知り、弘福寺を訪ね、またひとつ学びが拡がりました。

※写真は、隠元禅師の肖像画、宇治の黄檗山萬福寺、向島の牛頭山弘福寺です


(著者:藤田 英樹)